感想「コウモリであるとはどのようなことか」

トマス・ネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』勁草書房(1989) を借りて,当該論文を読んだ.原論文は1974年に発表されたものである.読む前は「クオリアみたいな認識論的な問題のことを,コウモリの視点云々の話から論じてる何か」くらいのガバガバな印象しかなかったのだが,実際に読んでみると大変面白く,大変難しかった.以下は全体の流れのメモと感想.

 

「意識の存在が,心身問題を真に困難な問題にしている」(p.258) という書き出しの通り,心身問題がテーマである.特に,物理主義(すべての現象は物理的に説明ができる)の立場から主観的な経験を説明することを批判する内容となっている.

 

 

問題設定(なんでコウモリの話をし始めたのか)

意識体験はありふれた現象である,とネーゲルは切り出す.人間に限らず,犬や猫のような動物が意識を持ち,何かを体験することは確かに認められそうである.しかし,この意識体験というものは一体何なのであろうか.

ある生物が意識をともなう心的諸状態を持つのは,その生物であることはそのようにあることであるようなその何かが――しかもその生物にとってそのようにあることであるようなその何かが――存在している場合であり,またその場合だけなのである (p.260) 

ネーゲルは上のように述べて,これを「経験の主観的性格」と呼ぶ.

 

(なんだか既に難しいのだが,ユクスキュルが『生物から見た世界』で言った「環世界」みたいな考えなのかなと思った(これもガバガバにしか覚えていないけど).同じ世界を見ていても人間ならば人間特有の見え方があるし,ダニならばダニ特有の見え方がある.自分がダニとして意識をもって体験をしているとき,そのときの自分は人間ではなく,ダニである必要がある.逆に言えば,ダニでなければダニの意識を体験することはできない...ということかなと捉えた.)

 

経験の主観的性格は,心の機能的な状態や思考的な状態の観点(つまり,物理学的(科学的)な観点)から説明することでは分析できない.もしできるとすれば,何事も経験することのないロボットさえ主観的性格を持っている,と言えてしまう.同様にして,主観的性格は人間の振る舞いにおける諸体験の因果的な役割を見ても分析できない(これ多分,行動科学的なアプローチも否定する主張),とネーゲルは言う.

 

(例えば「甘い」という体験を持つロボットが開発されたとしても,生理学的(ロボット工学的?)には「そのロボットが「甘い」という体験を持っている電気信号」しか発見できない.ここで問題になっているのは恐らく,「ロボットの視点からの「甘い」という体験はどのような体験か?」という点(参考: p.279 注2) )

 

なんで客観的な物理理論で心(意識)を説明できないかといえば,この主体的性格が原因である.ネーゲルは,主観的特性の持つ問題性をもっとはっきりさせるため,主観的な見方と客観的な見方の相違点を明瞭に示す実例(コウモリの例)を提示する.

 

 

コウモリの例

コウモリが体験を持つことを疑う者は誰もいない,とネーゲルは言う.なぜコウモリを取り上げたかというと,系統樹を下りすぎるとそもそもその生物に体験が生じている,という可能性が怪しくなるからである(私は上でダニの意識云々と書いてしまったが,確かにダニのような生物よりは,コウモリのような生物のほうが体験を持っていそうだ).しかしコウモリは,哺乳類であるという点で(ダニのような)他の生物よりもわれわれと近い関係にありながら,われわれとは大きく異なっている点もある.そのため,コウモリを取り上げることでネーゲルの提起したい問題が鮮明に示されるのだという.

 

われわれはコウモリの体験を理解することができるかを考えよう.まず,コウモリが体験をもつことは疑いえない,と考えられるのは,「コウモリであることがそのようにあることであるようなその何か」が存在するためである(先の引用文と同じ話).ところが,コウモリの体験を理解しようとすると,次の点が問題になる.われわれが視覚によって行うのと同じように,コウモリはソナーによって外界を知覚している.しかし,コウモリのソナーの機能はわれわれのどの感覚器官にも似てはいない.「それゆえに,ソナーによる感覚が,われわれに体験または想像可能な何かに,主観的な観点からみて似ているとみなすべき理由はないのである」(p.263) こうした事実は,コウモリであることはどのようなことなのかを理解する際の障害になるという.

 

自分がコウモリとして飛び回ったり周囲をソナーによって知覚したりする...という想像をすれば,コウモリの体験を考えることは可能なように思える.しかしネーゲルは言う.

私に可能な範囲では(その範囲もさして広くはないが),そのような想像によってわかることは,私がコウモリのようなありかたをしたとすれば,それはにとってどのようなことであるのか,ということにすぎない.しかし,そのようなことが問題なのではない.私は,コウモリにとってコウモリであることがどのようなことなのか,を知りたいのである.(p.262)

 

こんなとき,「コウモリにとってコウモリであることがどのようなことなのかなんてわかるわけないのだから,主観的体験なんて存在しないと考えてもいいのでは」と思う人がいるかもしれない(神が本当にいるかわからないことを理由に,その存在を否定するのと似た考えだと思った).こうした考えをネーゲルはちゃんと想定していて,次のように述べている.

もし,そのような主観的体験がどのようなものであるのかはわれわれにはまったくわからないのだから,われわれはそのようなものが存在すると信じることもできないはずだ,と主張したくなった人がいたならば,その人は,コウモリのことを考えるに際してわれわれが置かれている立場について反省してみるべきである.それは,知性のあるコウモリや火星人が,人間であることはどのようにあることなのかを理解しようと試みたとすれば,そのとき置かれる立場とまったく同じなのである.(pp. 265-266)

逆の状況として,頭の良いコウモリが人間にとって人間であるとはどのようなことかを議論している場面を考える.そこでコウモリが「わかるわけない」という理由で「人間に主観的体験なんて存在しないです」と結論したとすれば,それは誤りであることがわかる.

「なぜならば,われわれはわれわれであるということがどのようにあることなのかを知っているからである.(中略)そして,記述や理解がまったくできないことについては,その実在性も論理的有意味性も認めないというのは,心理的な葛藤の解決策としては最も幼稚な形態であるという得よう」(p.266-267)

ネーゲルは述べて,先の考えを論駁する.

 

(私は最初,「コウモリが体験を持つことを疑う者は誰もいない」という前提を少し疑ってしまったのだが,この論駁によってそうした疑いも排除されることに気付いた.すごい.)

 

 

コウモリの例から何が言えるのか?

コウモリであるとはどのようなことかを検討することで,①人間の言語で表現可能な命題によってはその本質が捉えられないような事実が存在する ②ある種の事実に関しては,それを記述し理解することはできないにもかかわらず,それは実在することは認めざるをえない ,という問題があることが分かった.しかし,ネーゲルはこの問題の追及はしない.

私が追及すべき問題(すなわち心身問題)とこの問題との関係は,この問題が体験の主観的な性格について一般的に語ることを可能にする,という点にある.人間,あるいはコウモリ,あるいは火星人であることはどのようにあることなのか,に関する事実がどのような身分にあるにせよ,そのような事実は特定の視点を具現している,ということがわかってくるのである (p.268)

コウモリの話は,生物にはその生物の視点というものが存在することを示す.これ心身問題を本格的に議論していくための土台である.

 

ここまでの議論は,個々の体験はその人間にしか知りえないものだ,ということを主張したいのかのように見える.しかしネーゲルは次のように言う.

自分自身以外の視点をとることもしばしば可能なのであって,それゆえ,特定の視点を具現しているような事実を理解することは,自分自身の場合以外にも可能なのである.(pp.268-269)

私は最初,同じ人間でも私と他人では違う存在なんだから,その人の視点を取ることなんてできないと思っていた.けれどもネーゲルはそこまで強い主張をするのではなく,十分に似た対象についてはその視点を取ってみることができる,という.

ある意味では,現象学的事実とはまったく客観的なものである.一人の人間は他の人間の持つ体験の性質が何であるかを知ったり言ったりすることができるからである.しかし別の意味では,それはやはり主観的なものである.ある対象にある体験を客観的に帰属させることができるのは,その対象に十分似ているために彼の視点を取ってみることができる――いわば第三人称においてと同時に第一人称においてその帰属を理解することができる――ような主体だけだからである. (p.269)

逆に言えば,十分に似ていない対象に対しては,その視点を取ってみることが難しくなる.コウモリの例で,ソナーの存在が理解の障害になったのはその一例だろう.ある生物種の体験はその生物種の視点からしか近づけない,というのは分かる話である.

 

そうだとすれば,体験というものはその生物の生理的な作用として顕れる,という物理主義の主張は,根拠のない主張となる.経験の主観的性格は,心の機能的な状態や思考的な状態の観点から説明することでは分析できない.という冒頭の主張が,ここで裏付けられるのである.

 

物理的現象として事物を客観的に理解する際,そこには生物特有の視点とか体験といったものは排除されているはずである.どんな人間にとっても,またどんな生物にとっても物理法則は共通しているし,そうした法則をもとにした説明はすぐれて客観的なものである.言いかえれば,人間に固有の視点からできるだけ遠ざからろうとするのが正しい姿勢である.一方,体験を理解する場合には,特定の視点との結びつきが重要になる.「結局のところ,もしコウモリの視点を取り去ってしまえば,コウモリであるとはどのようにあることなのかに関して,いったい何が残るのであろうか」(pp.270-271)  とネーゲルは述べる.生理学者は主観的な性格ではなく客観的な性格だけから私の心的過程を見る.それによって,私の心的過程から何らかの物理的過程を観察することができる,と言える理由はどこにもないのである.

 

 

結論

ここまでの議論を受けて,ネーゲルは次のように述べる.

およそ体験が客観的な性格をもつということに何らかの意味がありうるかどうかという根本的な問い(この問いからは脳への言及はまったく排除されていてよい)に関しては,ほとんどいかなる研究もなされてこなかった.言いかえれば,私の体験が私にとってどのように表れるかを離れて,実はどのようにあるのか,と問うことに意味があるのかどうか,という問題が論じられていないのである. (p. 276)

 物理主義に言わせれば,人の心や意識でさえも物理的で客観的な説明ができる.しかし上で述べてきたように,そうした理解は体験の主観的性格を取りこぼしてしまう.それならば,体験が物理的な記述によって捉えられる,という考えはどのように理解すればよいのだろうか.あるいは,なぜその考えが正しいといえるのだろうか.

 

結びとして,ネーゲルは一つの提案をする.物理主義ではない方向からアプローチをすれば,主観的なものと客観的なものの間にあるギャップをきちんと問題にして扱うことが可能であるという.先にみたように,主観的性格は,想像力を介さないと理解できない問題がある.それならばもし,「自己投入や想像に依存しない一種の客観的な現象学」を開発することができれば,体験の主観的な性格の少なくとも一部が,その体験をもちえない存在者にもわかるように記述されるようになるだろう.そして最後に,次のように述べる.

心に関する物理的な理論を考える前に,まずは主観的なものと客観的なものに関する一般的な課題を,よく考えなければならない.そうしなければわれわれは,心身問題を取り逃すことなく設定することさえできないのである.(p.278)

 

 

思ったこと

物理主義に懐疑的な立場を取る内容の論文であるが,私個人としては,物理主義の側にシンパシーを抱いてしまう.この議論を受けて物理主義を擁護する方策としては ①経験の主観的性格が物理主義の立場からでも説明が可能であることを示す ②ネーゲルの議論を疑似問題として扱うことで批判を回避する という2通りの方法がパッと思いつくところである.

 

このうち①は明らかに困難を極めそうである.経験の主観的性格が物理的に還元できない,というのはたぶん正しい主張であるし,論駁できそうな気もしない.還元できないと言われたものを還元しよう,という不可能を可能にする的なアプローチもそれはそれで良いと思うが,どうも見通しが立たない.

 

しかし,この主張の根幹を成している経験の主観的性格というものが実は存在しないとすれば,物理主義を擁護できるかもしれない.これが②の方針であり,もし擁護を図るとしたらこっちになるのかなと思った.

 

こっちはこっちで「で,これが疑似問題だと言える根拠はどこ?」という話になるのだが,正直なところ今の私にはわからない.心身問題について還元的主義的な説明をしている人物の例として,ネーゲルは注1で様々な哲学者を挙げている.ここで挙げられた哲学者は何らかの反論をしているはずなので,その主張に目を通すことはヒントになるだろう.注1ではデイヴィッド・ルイスやヒラリー・パトナムなどの名前が挙げられていて誰から目を通せばいいのかわからないのだが,とりあえずはデネットを読んでみたいなと思った.デネットは以前,TEDのスピーチ(ダニエル・デネット:かわいさ、セクシーさ、甘さ、おかしさ https://www.ted.com/talks/dan_dennett_cute_sexy_sweet_funny?language=ja)を見たことがあり,「ちょっと好きな考え方かも」と思ったのが理由である.注1にはContent and Consciousness というデネットの著作が上がっているのだが,語学力がゼロなので洋書が読めない問題がある.なので,『心はどこにあるのか』ちくま学芸文庫(2016)  あたりを次に読もうかな,と思っている.あるいは,全然違う本を読んでいるかもしれないけれど.